2003.12.29 「捨てることができる強さ」

 新しい年がやってきます。
 精神的な弱さのために捨てられないモノは怖がらずに思い切って今年で捨ててしまおう。ちょっとの間は、寂しかったり心が痛んだり苦しかったりすると思うけど。でも弱さのために繋がっている方がもっと悲しいし、常に辛い気持ちがつきまって離れない。だから心は不安定でいつも曇り空。
 捨ててしまえば、いつかは晴れ間が見えてくるでしょ。早く来年にならないかな……。


2003.12.25

 あと少しで2003年が終わります。やり残していることはありませんか?
 私は、すでに1つやり残してしまったことがあります。粗大ゴミ、間に合いませんでした……。今日、粗大ゴミの回収をお願いする電話をかけたのですが、来年の1/6に回収だそうです。残念。何となくスッキリしない気分で今年を終えそうな気がしてきました。粗大ゴミのほかに、HPをリニューアルしたり、新曲も作りたいなぁ。やりたいことが山ほどあります。
 そうそう。12月中旬からマレーシアへ行っていました。果物のジュースを沢山飲んで、食べ物も沢山食べて、3キロ太りました。今年中に、ダイエットもがんばらないとね。いろいろな国を見ることは刺激になるし、考えさせられます。来年は最低でも2回は海外へ行こうと思い、すでに場所も決め、今日から貯金してます。この日記も、最近更新が減っているので、今年が終わるまでには沢山、書きたいなぁ。
 何はともあれ、やりたいことが沢山あることは、楽しいことです。


2003.12.04 「私の拘りと願い」

 人は一人だけで生きているわけではありません。孤独が好きな人だって、まったく誰にも関わらず誰にも会わずに生きていくのは、少なくても日本国内では、ほとんどの場合、不可能なことでしょう。ほとんどの人が、必ず誰かと関わって生きています。

 何が言いたいかというと、現在、販売している私の曲はすべて周りの人の助けがあって出来上がった作品です。私一人では絶対にここまでの作品は作れなかったと思います。だからプロデューサーやライヴでお手伝いしてくれているスタッフに対し、常に感謝の気持ちを忘れていませんし、出会えたこと、協力してくれることをとても嬉しく誇りに思っています。

 私は作品を作ることや、ライヴや宣伝することに対し、全てこだわりを持って取り組んでいます。なので、ライヴでもストリートでも自分が100パーセント納得できた作品しか絶対に演奏はしませんし、演奏できません。これはプロフェッショナルな精神で作品を作っている人なら当たり前のことだと思います。例えば10曲ができたから10曲すべて演奏できるかというと、そうではありません。私はそこまで完璧な人間ではないので、10曲作ってもその中で自分が納得できるものは1曲あれば良い方なのです。

 仮にもしも納得していない曲をストリートで演奏したときに通行人に自分が納得していない曲を批判されたとしたらどうでしょう?私自身悔いが残るでしょうし、恥ずかしかったり情けない気持ちも出てきて、良い気持ちはしないでしょう。しかし、もしも納得した作品を思いっきり演奏してそれを批判されたとしたら、胸を張って自分の作品を主張できますし、責任を取ることができます。そして絶対に情けない気持ちにはなりません。

 たまに、もっと沢山の曲を演奏すれば良いのに、と言われることがあります。じつは曲の数だけで言えば、オリジナルは100曲以上はありますが、上記のような理由から、現時点で納得している作品だけをストリートでは演奏しています。

 また、私の行動がスタッフが関わっていることで縛られているように見える人がいるようですが、それは違います。もしも私の曲の中で「良い曲だ」と思える作品があるとしたら、それは周りで私を支えてくれたスタッフのおかげなんです。今みなさんが聴いているのは、何回もスタッフのチェックを受け、何度も何度もボツが出て作り直して苦しんだ末にやっと産まれた作品です。もしも完全に私一人だけで作っていたとしたら明らかにクオリティが低い違う曲を発表することになっていたでしょう。そのぐらい周りに助けられて出来上がった作品なのです。なので、「良い曲だ」と思ったとしたら、それはスタッフのおかげなんですよ。そもそも私一人でやって成功しているなら、とうの昔に100万枚売れるぐらいのアーティストになっています。そうではないから、今のスタッフに協力して助けてもらっているわけです。

 自分がいままでやってきたこと、経験したこと、キャリア、関わっているスタッフがいるから、その結果、今の私と曲が存在しているわけで……。たとえばスタッフや私の今までの経験を少しでも批判されると、現在の曲やすべてを批判されているように感じて、悲しい気持ちになります。

 また、宣伝方法やライヴ会場、ライヴの回数についても、私自身、拘りがあるのです。とにかくいろんなサイトに宣伝すれば良い、というわけにはいかないのです。最近、いろいろな方から月に数本以上ライヴのお誘いを受けて嬉しいのですが、ストリートの兼ね合いや、レコーディング時期などから、ほとんどの場合、申し訳ないのですが、どうしてもお断りしなければならない状態になってしまいます。

 さて、何が言いたいのかまとめると、現在の私の行いのすべては、ちゃんと拘りがあって、それを考慮したうえでの行動なのです。何も考えずに、行き当たりバッタリで行動しているわけではありません。自分のことは自分だけしか責任は取れませんので、そのためにはちゃんと拘って納得して行動していきたいのです。私の音楽を多少なりとも好いてくれていたり、興味を抱いている人たちには、そう思って、あたたかく見守っていただけると、嬉しいです。

 みんなに沢山の曲を聴いてもらいたいなぁ、と思う気持ちは、誰にも負けないぐらいあるし、だから寒い中のストリートをがんばれるのですよ!わざわざ寒い中、見に来てくれるお客さんがいて、演奏している私だってどんなにいろんな曲を演奏したいと思っていることでしょう!でも、納得できない作品を演奏することは、そんなみんなに対し失礼な行動だと思うのです。なので、今回書いたことについて、みんなに、あたたかく見守ってもらいたい気持ちを込めて書きました。


2003.11.05

 最近、説教じみたことを書いていることが多いので,今日はちょっとした世間話でも。
 こないだ用事があって100円ショップへ行ったんですよ。そして驚きました。なんと様々な種類のサプリメントが100円ショップで販売されていました!コンビニで買うと2週間分で500円のサプリメントが、100円ショップでは(もちろん)100円。なんか驚いちゃうよね〜。ちなみに私は、この日、ダイエットに効果がある「ダイエットサプリ」を4袋(2カ月分)購入しました。400円。安い!
 ストリートで使用しているキーボードの電池が単一電池なんだけど、単一電池って結構、値段が高いんですよね。ディスカウントショップや量販店で買うと、1個200円前後してしまうのです。でも100円ショップだと(もちろん)100円。半額も違うなんてね。アイデアについても感心します。「こんな商品まで100円にしちったの?」っていう商品も珍しくないです。
 昔は100円ショップの商品は安いというだけの理由で壊れやすいような先入観を持っていたけれど、見直しました。
 そして私は、100円ショップで買い物した日から、毎日お菓子を食べながらダイエットサプリの効果が表れるのを体重計に乗りながら楽しみに楽しみに待っているわけなんですが…………。(自力で痩せろ、って感じですよね)


2003.10.30 「ダイエットと大福とサボること」

 ダイエット中の私には、この時間帯(夜中)が一番苦しいです。そんな私の目の前に1個の大福があります。さっき危なく食べてしまいそうになりました。危ない、危ない……。

 大福をジーッと見つめながら、「大福の白い皮の部分のカロリーはいくつだろう?」とか「皮は食べずにあんこの部分だけ食べたらカロリーが低いかもしれない」などと、食べても良い言い訳を無意識のうちにどうにか捜し出そうとしている自分がいました。あんこだけ食べても、皮の部分だけ食べても、どっちもカロリーはゼロなわけがないのにねぇ。そんなことを考えた後、食べる言い訳を考えている自分を客観的に思い出し、少し滑稽に見えました。

 そういえば、私は、常日頃から、何かをサボるとき、大福を食べる言い訳を考えたように、サボっても良い言い訳を考えることが多いです。元々、私は怠け者なのですよ。すぐサボりたくなってしまう人間なのです。そんな時、自分を安心させるために、サボっても良い言い訳を考えて自分を正当化させようとするわけです。この言い訳は、他人にサボることを言い訳したりウソをつくためのモノではありません。独り言のようなもので、他人に話すことは決してありません。正当な理由があるのだからサボッても良い、ということを心の中でいろいろ考えて、自分を安心させるためのものなのです。

 でも、最近、上記のようにサボってしまうと、心の中が曇ったようですっきりしないし、楽しくない、ということに気が付きました。なので、近頃は面倒だなぁ、と思っても、がんばって行動に移すことにしています。そうすると、その時は面倒だったり疲れても、後で良いことがあったりするんですよね。


2003.10.28 「懐かしむ心」

 何年も前から「年老いる」ということに女性として恐怖を感じているし、そのことについてはかなり過敏です。太ってきたり、体が弱ってきたり、シワが増えたり、忘れっぽくなったり、年金はどうなるんだろう?など、本当に怖いです。

 こないだ観た映画で「歳を取っていくことはすばらしいことなのよ。昔を懐かしむことができるのよ」というセリフがありました。確かにそう言われると、。子供の頃に「懐かしむ」なんてことはした覚えがありません。子供の頃は、過去を思い返すといっても、せいぜい数日間前の出来事を思い出すぐらいで、「何年前にこんなことがあったよなぁ」なんて記憶を辿っていくような行為はしませんでした。人間って不思議なものですねぇ……。人はどのぐらい成長し経験したら、「懐かしむ」ことを覚えるようになるのでしょう?

 そう考えてみると、確かに年老いることはイヤなことばかりではないのですね。ステキな想い出ができるように一日一日を精一杯生きていきましょ。


2003.10.14 

 昔は旅行はキライだった。その理由は、旅行から帰ってきたあとの後片付けのことを想像すると、どうしても面倒だな、と思ってしまう自分がいた。でも、ある旅行をきっかけに海外旅行だけは大好きになった。
 ということで、今年も、異国へ行ってみようと思っている。
 旅行する目的は人それぞれいろいろあると思うが、私の場合、バカンスというよりは、がんばる旅が大好き。心を癒すために行くというよりは、精神を鍛えるために行く。何か目的を決めて、それを達成するために行く。そんな疲れる旅は何が面白いの?と思う人もいるかもしれないが、達成感を味うことで、気持ちが満たされる性格なのであります。だから、もしも観光リゾート地へ旅行したとしても、旅行客が沢山いる海辺で泳がずに、苦労して現地の人から情報を仕入れて、そこからまた苦労して小船で無人島へ行ってしまうタイプなのであります。
 ってことで汗まみれになって探検する国は大体決めました。まず最初の旅の準備として、アコーディオンとギターを売って、新品のデジカメを買おう!


2003.10.09 「黄色の背景」

 幼い頃、大人に怒られり注意された時に納得ができないことがしばしばあった。でも、その納得できない理由は、自分が幼いせいであって、成長すれば大人の考え方や怒られた理由について理解できるのかな?と子供ながらに思ったりしたものでした。幼い心の中で、大人はパーフェクトだと信じていたい気持ちが、どこかにあったのだと思います。だけど、大人になって、その時の内容を思い返したときに「やっぱりあの時、大人から言われたことは、何かおかしいぞ?」と思う事柄が結構あったりもします。
 ひとつは、小学校の時の絵画の時間のこと。授業内容は友達と向かい合って、その向かい合った友達の人物画を描く、というものでした。私はその時、仲良しの女友達を描き、その背景を黄色の絵の具で塗りました。人物に色を塗り、仕上げの背景を一所懸命に黄色で塗っていたとき、そこにちょうど先生が通りがかって、「どうして背景を黄色で塗っているんだ!!!」と大声で私のことを怒鳴りました。
 先生は、授業の最初に「水彩画で背景を黄色で塗ると、人物を塗った絵の具の色と背景の黄色が混ざって汚くなる」と説明したのに、と私を叱りました。どうも私は幼い時に、あまり人の話を聞かないコだったようで、「説明したのに、どうして聞いていないの?」と、よく先生に怒られていました。
 確かに、「背景を黄色で塗ってはいけない」と説明した先生の話を聞いていない私が一番悪い。それは認めます。ただ私が納得できなかったのは、怒られた理由にではなく、「どうして背景を黄色にしてはいけないのか」ということに納得できなかったのです。
 「他の色と黄色が混ざったら汚くなる」と先生は説明したけれど、黄色が他の色と混ざったら、本当に汚くなるのだろうか?エンピツの下書きからはみ出さずにキッチリ塗ることが、美しくすばらしい絵を書ける条件なのだろうか?子供ながらに、「どうして色が混ざったら汚いと決め付けるのだろう」と疑問に思ったのでした。
 そういえば、小学生の頃、歌(ソルフェージュ)のレッスンの時に「子供らしい歌い方で歌いなさい」と、何度も先生に注意を受けた記憶があります。どうも私は、子供らしくない歌い方をしていたようなのです。「子供らしい歌い方の定義」とは一体何なのでしょう?小学生の私は、「子供らしい歌い方」がどんな歌い方なのか分からずに、その当時、かなり悩みましたし、多少ですが自分の歌い方にコンプレッスクスを抱きました。
 芸術を教えるための授業なのか、規律を教えるための授業なのか、常識を教えるための授業なのか……?
 大人になってわかったことは、自分をはじめ、パーフェクトな大人(人間)はいない、ということを知りました。パーフェクトではないから、日々、がんばるし、努力するし、悩むわけですね。


2003.10.02

 私は、仕事で「それはできない」とか「ムリです」と言えないタイプです。元々、プライドが高い人間なので、「できない」と言うのが弱みを見せていたり、自分を無能な人間に見せているようでイヤなのですよ。この考え方は、かなり若いときからです。だからもしも「ムリかも?」と思っても、チャレンジしてから答えを出すタイプなのです。
 でも私のほうが珍しい考え方の持ち主なのでしょうか?「できない」とか「ムリです」という人、周りで沢山見かけます。あれほど「がんばります!」って答えたのに、その次の日、もしくは数時間後には「やっぱり私にはムリです」って簡単に言う人には、「え?もうリタイヤしたの?がんばってよ」とちょっと悲しくなります。他の例えを出すと、ピアノを習っている生徒に楽譜を渡した瞬間、まだその曲を弾いてもいなし、楽譜を1秒見ただけで「弾けない」と判断してしまう人など……。
 何かを達成しようと思ったら「楽しいだけ」では進むわけがない。どちらかというと苦しい気持ちや障害があることがほとんどだと思うのですよ。努力して苦しさを乗り越えて、やっと嬉しさや楽しさがやって来る。その繰り返しなのでは?目指す目標が高ければ高いほど、苦しかったりなどのツライ道が長いわけで。でも途中途中にちょっとした努力の成果が見えて嬉しくなったりとか。
 それに苦しいことや辛いことがあるからより嬉しい気持ちや楽しい気持ちが引き立つわけであって。楽しいことばかりが続くと、次第に「楽しい」さが慣れっこになって「普通」、もしくは「当たり前」に変化してしまうでしょ。
 せめて、最初から「できない」って言わないで、チャレンジしてから答えを出して欲しいなぁ、と願うわけで。成果って、そんなにすぐに表には現れないし。ことによっては何十年か後になって成果が見える、ってことも珍しくないしね。
 何か最近、説教じみたことばかり書いているなぁ……。



2003.09.25

 人それぞれ、心の物差しはバラバラです。自分なりの尺度で物事を測って生きています。自分では「ちょっとひと休み」のつもりが他の人から見ると長時間怠けているようにも見えたり、自分では努力しているつもりが他人からみると努力していないようにみえたりとか。
 他人の尺度を気にして生きているわけではないですが、自分が好きなコトぐらいは人一倍がんばりたいし、それなりの成果を得たいと思うので、そう思うと、休んでいるのが勿体無く感じてしまい、他人よりも努力しようと心がけてしまう自分もいます。しかも好きなコトで成果を得たい場合、自分の尺度だけではなく、他人の尺度で測っても「それなりのデキ」のモノでなくてはならないわけで。そうなると自分の心の物差しのメモリ以上の「もっと」を意識してがんばろうとするわけです。
 何よりも将来、自分が後悔したくない、っていうのが「がんばろう」と思う理由やパワーに繋がっていると思います。過去や時間は取り戻せませんからね。
 そう考えると、やはり大人になったんでしょうね。子供の時は、過去を振り返ったり、時間の大切さは考えませんでしたから。明日は永遠だと思っていきていました。
 でも、明日は決して永遠ではないし、時間は誰に対しても均等に平等に進んでいるわけで。それを有効に使うかどうかは自分次第なわけで。やっぱり好きなコトぐらいは、ね!


2003.09.20 足し算と引き算と彼と彼女のお話

 今日は、あるところにいる彼と彼女のお話。
 さて人間、長くつき合っているとその二人の間にはいろんなことが起こります。

 彼の方は、二人で様々な体験を共有し、討議して、相手のいろんなことをどんどん知って、ぶつかってもその度にお互いの短所も話し合って、それを長所に変えるように、なるべく彼女に歩み寄ろうと前向きな「足し算形式の人間」。そんな彼は分かりやすく例えると「足し算形式」で未来を計ります。

 一方、彼女の方は、いままでの彼とのちょっとしたすれ違いや、ケンカの時に勢いで出た彼のひどい言動や行動を勝手に「彼が自分に愛情がないからだ」と判断し、すれ違うたびに、彼の自分への愛情の予想ポイントから差し引き、二人には未来が無いと嘆く「引き算形式の人間」。彼女は簡単に例えると「引き算形式」で過去の出来事に縛られています。

 二人の関係の救いは、お互いの思考が違っても、どうにか関係を続けたい、と願っていること。(彼女が「二人には未来が無い」と嘆くのはキライだから嘆くわけではなく、その逆でとてもとても好きだから)。もう一つの救いは、彼と彼女のどちらもが「引き算形式の人間」じゃなくて良かった、ってことですな。やはり光を求めて前向きになることは必要ですから。

 彼は未来を見つめ、彼女は過去を見つめています。このことで一見、二人は正反対のように見えますが、考え方が違っているように見えても、二人の求めている結果は一緒なのです。ある意味、目線や心はひとつなのです。お互いの考え方のプロセスは異なっていたとしても、最終的な場所(結果)で心がひとつになればいいのではないでしょうか?。

 CDの2曲目の「愛って……」という曲は、そんな関係の彼と彼女の曲です。


 あるところにいる彼と彼女のお話でした。


2003.09.17

 昔から物事を悪い方に考えたり、予測したりするクセがある。その理由は、このページの9月12日のところにも書いたが、それは自己防衛のためなのではないかと自分では思っている。悪い方に予測しておけば、本当に悪い結果になったとしても、予測していた分、ショックは少ない、という自分なりの心の防御方法というわけ。
 しかし、近頃、その自己防衛はあまり良くないものなのではないかと思い始めている。というのは、予測したり考えたりしていることが、知らず知らずのうちに潜在意識となり、無意識のうちに、そういう風に実行しようとしている自分がいるのではないかと不安になったのだ。例えば、何かスポーツをプレイしているとき、「失敗するかも」または「負けるかも」と思っていると、本当にそうなってしまう……。悪い予測をした時点で、精神的な面で自分自身に負けてしまって自ら失敗を招いてしまっている感じです。
 自分自身に悪い暗示をかけながら生きているような気がしてきたんですよね。これは物事に対してだけではなく、人間関係にも言えることではないでしょうか?
 ということで、なるべく前向きに物事を捉える方が、成功の道に繋がるのではないかなぁ、と思い始めています。といっても、クセを直すのはなかなか難しいものです。


2003.09.16

 自分で自分の顔を直接見ることはできない。毎日、鏡に映った顔が自分の顔だと思って生きている。 左右のカタチが多少違った目や、髪の分け目も、毎日自分が鏡で見ているのと、他人が見ている私の姿は違うわけで。
 例えば、何かの偶然で頻繁に会う知人の顔を鏡で見たことはないですか?その時、ドキッとしませんでしたか?私は、上記のようなことが起こったとき、それが親しい人であればあるほど、鏡の中の知人が別人に見え、かなり驚きます。そして、その時、私は決まってこう思います。「この人は、自分の顔をこんな風だと思って生きてるわけね」と……。
 そう考えると何となく不思議です。これが自分の顔なんだ、と無意識のうちに信じて何十年も毎日鏡に映った自分の顔を見ているんですよね。自分の本当の顔すら知らないで生きているわけです。
 もしかすると、人というのは、姿だけではなく、自分自身が一番自分のことをわからないのかもしれません。
 ちなみに、ムーミンパパが初めて自分を見たのは、確か海の流氷に映った自分の姿だったはずです。初めて流氷に映った自分の姿を見て、ムーミンパパはあまりの美しさにうっとりしたそうです。私も、鏡に映った自分の姿を見てうっとりしてみたいものです……。
 しかし、私の本当の顔は、一体どんな顔なのでしょう?一生の謎ですな。

2003.09.12

 私の場合、何か行動をすると、その先に、無意識のうちにエゴ的な期待を抱くみたいです。
 たとえば、些細なことで例えるなら、ある映画のDVDを他人に貸したら、貸した相手からソフトの感想を聞きたいとか、当たり前に感想を言ってくれるものだろうとか、無意識のうちに勝手に想定している自分がいます。
 ところが、人によって行動や考えることは様々で、なかには普段から映画を観ても感想を言わないタイプの人間もいて、そんなタイプの人にソフトを貸して、勝手に感想を聞こうと期待してしまうと、空しい結果に終わるだけで……。
 ということで、最近は、仕事でもプライベートでも、何かするときには「無」の状態、または「客観的な視点」で取り組むことにしています。このほかに、先々のことをいろいろ想像し過ぎないようにも注意しています。私にとっては、その方が、予想外の出来事があっても冷静に取り乱さずに行動できるみたいなので。
 ちなみに「過度な想像」や「期待しすぎる」ことと、「目標」は別モノです。エゴ的な期待や想像は避けるようにしていますが、何か物事に取り組むときには、ちゃんと目標を立てかなり計画的に行動するよう心がけています。
 とは言いつつ、上記のような期待しすぎないように気持ちにブレーキをかけようとするのは、期待しすぎてあとで落胆するのが怖いから自己防衛のための対策なんでしょうね。自分の心の中をそんな風に解釈すると、ちょっと寂しいような気がします。がっかりするのが怖い自分もいますが、その反面、いつまでも夢や期待や希望は、大きく持っていたいような自分もいるんですよね。


2003.09.11

 以前に知人が言っていましたが、一般的な家庭の場合、家の中にある70パーセントのものは、ほとんど使わないモノで必要ではないモノなんだそうです。上記のことを理由にして、知人は浪費家の私にお説教をしていました。
 そう言われると、そんなような気もします。私の場合は、音楽機材はなくなると困りますが、持っている洋服の9割は必要がないかもしれません。沢山買っても、最終的には着心地の良い洋服だけを選んで着てしまうんですよ。そう考えて、モノの頻度だけで必要値を計ると、確かに家の中にあるほとんどのモノは生活するうえでは必要ないモノなのかもしれないです。
 とはいっても、使わないモノだから、必要ないかというと、そういうことではないと思うのです。そうなると、絵、音楽、観葉植物は、必要ないモノってことになるですよね。無駄に見えるものこそ、乾いた心が必要としているモノかもしれないです。
 そんなこんなで、私の浪費クセは未だに治りません。


2003.09.09

 家電製品、パソコン機器など、短い期間でどんどん進化してしまう。そのため、新しい製品を購入しても、すぐにその次の新しい製品が発売されるので、ちょっと損した気分になることも少なくない。しかも、新しく発売された製品に惹かれる一方で今まで使っていたモノが壊れているわけではないし、そのうえ愛着も感じているので、なかなか新しい製品の購入に踏み切れない。買ったところで、またすぐに新しい製品が発売されるだろうし、とも思ってしまう。といって、古い製品は大きくて持ち運びに大変だったり、やたら電気を消費したりで不便だったりする。
 ということで、私の場合、今、困っているのがデジカメ。
 1999年に10万円以上も出して買ったデジカメは、今のデジカメに比べると大きすぎる。しかも、外で使用するときは充電式ではないので単3電池を4本使用。驚くことにズーム、アップすると、5分も持たない。とはいえ、安くはない製品だし、壊れているわけではないので、どうしようか困ってしまう。新しいデジカメは性能が高いのはもちろん、小さいし、性能が良い割りに安いし。だからといって、使える古いものを捨てて、新しいモノを買うのは気がひける。 
 改良されてどんどん新しいものが発売されるのはある意味、便利なことで良いことなのかもしれないが、個人的な心情や理由として良いことばかりとは言えないですね。古い製品には愛着や思い出という、新しい製品にはない気持ちが付着してしまうので簡単に手放せませんわ。

2003.09.07

 物事を一定のテンションを保ちながら継続するにはパワーがいる。物事というのは、たとえば将来の夢だったり、習い事だったり、恋愛、人間関係などなど。それらを何年、何十年、継続するには、時にはがんばらなければいけない時や、強い信念が必要だったり、努力したり、勇気が試されることもある。

 だけどその逆にある、「長年継続したものをあきらめる時」という状況にもかなりのパワーが必要なのではないでしょうか?もしかすると、人によっては継続することよりもパワーを使うかもしれません。「勇気」というのは、「あきらめる」ために使うときもあると思うのです。

 私の「あきらめるための勇気」は、まだ使わずに大事にしまっておこうと思います。